貢献感とニートとフリーター
貢献感とニートとフリーター
「(中)希望のゆくえ 職就かずに夢見続けたい」
朝日新聞 2005年7月27日朝刊 12版 26面
戦後の「自分を大切に」してきたことの結晶が「ニート」「引きこもり」という形で表われたのだと感じた。
私はアドラー心理学に興味をもっていた時期があって「アドラー心理学トーキングセミナー(野田俊作著)」などを、読み耽っていたことがある。アドラー心理学では健康な人格の判断基準の一部に「共同体感覚」「貢献感」をあげている。もちろん、これだけではないのだが、この2つは、アドラー心理学独得のものであるように思う。
「共同体感覚」というのは、自分がより大きな世界の一部であるという感覚です。「自分は○○人」という帰属している感覚に近いけれども、その帰属している対象、つまり共同体がとてつもなく大きい。家族や国家は帰属感を持つ対象としては小さすぎると言っています。共同体感覚の対象としてもっとも小さい共同体は、全世界の人々(いままで生きた人々もこれから生まれるであろう人々も含む)であると言っています。ちょっと宗教がかっていますが。
「貢献感」は共同体に貢献しているという感覚です。
正確に知りたい方には「アドラー心理学トーキングセミナー」を読んで下さい。面白い本ですから。
ところで、この朝日新聞の記事を読んで、何故、アドラー心理学を思いだしたかと言うと、この「ニート」や「フリータ」達は自分を大切にして「自己実現」を追い求めるあまり「貢献感」と「共同体感覚」をどこかに忘れてしまったように感じたからです。自分の夢を追い求めるのは「芸術家」の特権であり宿命です。多くの人々にとっては、社会や家族(その人にとっての共同体)に「貢献」することが「自己実現」なのですが。
「貢献感」を感じることは、人間にとってとても気持の良いものなのですが、現代の日本は若者に「自分を大事に」せよと教えるあまり、「国家に利用される」ことを恐れるあまり、この「貢献感」と「共同体感覚」を味あわせていないように思うのです。
人間は群を造る生き物です。「自分のこと」だけを考えて生きるのは 人間にとって不自然なことなのではないでしょうか。
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もっとも、この記事は朝日らしく「社会」が何か対策を行ない個人がその果実を受けるべき、という論調で「個人の貢献感」は無視されていますが。
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