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2008年12月 7日 (日)

自由と人権と責任と弁護

自由と人権と責任と弁護

毎日新聞:東金女児遺棄:容疑で21歳男逮捕「遺体置いた
http://mainichi.jp/select/today/news/20081207k0000m040072000c.html

容疑者は母親と2人暮らし。01年に東金市内の病院で、「精神発達遅滞」と診断された。知的障害者に交付される療育手帳では5段階のうち最も軽度な「B2」で、地元の養護学校高等部を卒業後の05年4月、隣の山武市にある寝具会社に就職した。会社によると、今年8月28日から無断欠勤し、事件前日の9月20日退職した。

被害者の冥福をお祈りいたします。ご遺族の方にはお悔やみ申しあげます。

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容疑者には知的障害があるという報道がある。容疑者が起訴され裁判が始まったら弁護士は知的障害を弁護に使うだろう。

その事で弁護士を非難するつもりはない。弁護士は被告にとって有利になる可能性のあることは何であっての使うべきだからだ。

問題は知的障害があることが、このような場合に「被告に有利なこと」であるかどうかだ。

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私は、迷いもあるけれども、もし、裁判員になって判断を迫られたら、「知的障害があっても、責任は問うべきだ」という立場をとると思う。それは「自由や権利と責任」は互いにバランスするものだと思うからだ。

私は、このような場合、生まれながらの知的障害者ではなくボケ老人を想像して考えることが多い。ボケ老人は実感できるからだ(親戚や知人の親にもボケてしまった人はいるし、自分も10年後は大丈夫だろうけど、20年後は自信が無い)。

「私がボケてしまったときに犯罪を行ったら、私を罰するべきだろうか。私は罰せられることに納得できるだろうか」

ボケ老人の場合、ボケは進むものだ。本人や周囲の努力で、ある程度は回復したり停滞させたりはできるけれども、長期的には進んでしまうものだ。ボケた人間が犯罪を行った場合、裁判が終わるまでに、犯罪や罰といったことさえも理解できなくなるかもしれない。そんな人間を罰して何の意味があるだろうか。

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でも、「自由や権利」と「責任」はバランスすべきものだ。

自由に行動しながら、その結果に責任を持たないというのは許されない。

仮りに責任を問えないぐらいに知的障害があるなら、誰かがその人間を責任をもって管理しなければならない。管理し保護する人間が、その人間が犯罪を行ったり犯罪の被害者にならないようにしなければならない(管理し保護する人間が責任をとるべき)。

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知的障害者が、その行為の責任を問われないとしたら、その者を自由に行動させることに反対する。

知的障害者であっても、一人前の人権と自由を得ているかぎり、その行為に責任を持つべきであって免責されてはならない、と私は思う。

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コメント

同意です!それが家族・行政・裁判所の責任で有ると思います。

投稿: 猪 | 2008年12月 7日 (日) 14時19分

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