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2012年2月20日 (月)

精神的な未熟を理由にすることは個人の自由と対立する

精神的な未熟を理由にすることは個人の自由と対立する

中日新聞:光市母子殺害事件の最高裁判決要旨
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2012022090192937.html

【宮川光治裁判官の反対意見】

被告は犯行時18歳に達していたが、その年齢の少年に比べて、精神的・道徳的成熟度が相当程度に低く、幼い状態だったことをうかがわせる証拠が存在する。

精神的成熟度が18歳に達した少年としては相当程度に低いという事実が認定できるのであれば「死刑を回避するに足りる特に酌量すべき事情」に該当しうる。

被告の人格形成や精神の発達に何がどう影響を与えたのか、犯行時の精神的成熟度のレベルはどうだったかについて、少年調査記録などを的確に評価し、必要に応じて専門的知識を得るなどの審理を尽くし、再度、量刑判断を行う必要がある。審理を差し戻すのが相当だ。

【金築誠志裁判官の補足意見】

人の精神的能力、作用は多方面にわたり、発達度は個人で偏りが避けられないのに、精神的成熟度の判断を可能にする客観的基準はあるだろうか。

少年法が死刑適用の可否について定めているのは18歳未満か以上かという形式的基準で、精神的成熟度の要件は求めていない。実質的な精神的成熟度を問題にした規定は存在せず、永山事件の最高裁判決も求めているとは解されない。

精神的成熟度は量刑判断の際、一般情状に属する要素として位置付けられるべきで、そうした観点から量刑判断をした差し戻し控訴審判決に、審理不尽の違法はない。

私は金築誠志裁判官の意見に賛成する。

精神的未熟さや成熟によって責任が増減する(子供には責任がない)。では、精神的成熟度を正確に計ろうとするとどうなるだろうか。性格検査を行ったりや知能指数を計ったりするのだろうか。

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昔なら(いまでも一部の民族には残っている)成人になるための試練(バンジージャンプって元々成人として認められる為の儀式でしたっけ)を用意するだろう。

科学技術の発達した今なら何を基準にするべきだろうか。

性格検査などが出来なければ外形的な基準(例えば年齢)にするしかない。

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現代社会は各個人の自由や尊厳を認めようとする社会だ。性格の歪みも個性として認めようとする(「正しい性格」なんて決めようがないし)。精神的未熟さえ個性とされる。そのような社会で(価値観をもっていて)精神的成熟度を計って責任の加減をすることを認めるべきだろうか。

死刑というと極端なケースだけれど、ほかの物事(売買・就業・結婚など)も基本は同じ。

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すべての人間の個性をありのままに認めようとし、全ての人間が同じ権利を持っている事を良しとするなら、精神的未熟さを理由とした減刑をすることには慎重でなければならない。

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