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2012年3月31日 (土)

遺族感情を考慮すること

遺族感情を考慮すること

ダイヤモンド・オンライン:「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と書いた人に訊きたい
http://diamond.jp/articles/-/16819?page=2

まだまだある。ほとんどがこのトーンだ。つまりはこれが、日本の死刑制度存置を支持する9割近い人たちの本音ということになるのだろうか。ならばまずは、「死刑制度がある理由は被害者遺族のため」と言い切る人たちに訊きたい。

もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのだろうか。

死刑制度は被害者遺族のためにあるとするならば、そういうことになる。だって重罰を望む遺族がいないのだから。ならば親戚や知人が多くいる政治家の命は、友人も親戚もいないホームレスより尊いということになる。生涯を孤独に過ごして家族を持たなかった人の命は、血縁や友人が多くいる艶福家や社交家の命より軽く扱われてよいということになる。親に捨てられて身寄りがない子どもの命は、普通の子どもよりも価値がないということになる。

記事全体としては同感する部分も考えされられた部分もある。死刑執行や厳罰化はポピュリズム的かもしれない。

殺人という罪に対する罰に遺族感情を考慮するべきだと考えているので、引用した部分に対する意見を書いてみたい。

  *        *        *

例え話をしてみたい。あなたが友人のガラスのコップを割ったとしよう。そのコップは100円ショップでかったもの。2つのケースを考える。当然、両方とも同じコップを割ってしまったとする。

ケースA:そのコップは普段から日常的に使用しているコップ。特別なものではなく、それまで使っていたコップが割れたから、近所の100円ショップで買ったもの。

ケースB:知人は遠距離恋愛中で、恋人が訪れた時に100円ショップで2つのコップを買って1個づつもっている。電話で話しながら、同じコップで乾杯!とかしている。

当然、コップとしての価値、モノとしの価値はケースAとBで変わらない。

さて、あなたは何方のケースも、同じような謝罪で、同じような弁償で良いと感じるだろうか。それともAとBで謝罪や弁償が変わるべきだろうか。

  *        *        *

人間はモノに気持ちを乗せる。何かを壊したら、モノを壊したのと同時に気持ちの幾分かも壊した事になる。

殺人も同じ、ひとの命の価値は同じでも、与えた損害の量は同じではない。

  *        *        *

罪を犯してしまったことに対する償いが、原状回復、与えてしまった損害を出来る限り回復することならば、それに、気持ちの部分を含めない理由はない。

私はケースAとケースBで謝罪の方法や程度は変わるべきと思うし、殺人に対して遺族感情を考慮すべきだと思う。

  *        *        *

引用元の筆者の問題提起「もしも遺族がまったくいない天涯孤独な人が殺されたとき、その犯人が受ける罰は、軽くなってよいのだろうか」に答えたい。

現実には、まったくの天涯孤独の人間は存在しない。どんな人間であっても人間関係を持っている。誰かが殺されたとして「遺族がまったくいない」ことは有り得るけれど、その人が殺されて気持ちが傷ついた人がまったくいないということは有り得ない。ホームレスの人にだってホームレス仲間や支援者と関係を持っている。その人々の気持ちが傷つかない訳がない。

つまり、私には、遺族感情を考慮すべきかという問題ではなく、どの継がりまでを遺族感情として考慮すべきかという問題に思える。

あるいは「社会的影響の重大さ」としてあつかうべきかもしれないけれど。

  *        *        *

殺人事件における「社会的影響の重大さ」とは、社会が感じる「遺族感情」なのかもしれない。

  *        *        *

ところで余計なことかもしれないが「ホームレスを殺しても罰が軽い」と実行した場合、それは「犯情が悪質」として処罰が重くなるであろうことを付け加えておく。

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コメント

上の例だけど、100円ショップで買ったコップならどちらも弁償額と謝罪の形は同じでなければいけない。
司法制度の根底には人間の本能的な感情があるけれども、制度操作は感情などという主観的動物的な要素を排して飽くまで科学的・機械的に実施されなけれならない。
そうでなければ「皇帝の機嫌次第で死刑にもなれば恩赦にもなる」という前近代社会と同じになってしまう。

被害者が他人にどのような評価を受けているかということで量刑を決めてはならない。
それが「法の下の平等」の本質である。
強いて人間の命に差をつけられる場合があるとすれば、その人(またはその人が育てる子供)の稼得金額に基づく場合のみである。

遺族は被害者ではない。
第三者に被害者の人権問題に口をはさむ権利は無い。

投稿: | 2012年5月16日 (水) 00時47分

「どのつながりまでを遺族感情として考慮すべきか」

被害者は本人ただ一人である。
被害者ではない人間に、被害の恢復云々を主張する権利はないだろう。

強いて権利回復を主張してよい場合があるとすれば、その人が被害者に扶養されていて、あるいはされる予定があり、被害者が死亡したことにより、扶養を受けられなくなった=財産を失うことになった場合である。
この場合は感情など主張しても意味は無い。
「失った財産を補填してくれ」と主張すれば済む話である。

同じ行為・様態・事実・属性であれば同様の量刑を科すのが近代法の基本である。
人間の感情を加味していたら際限がなくなり私刑・リンチになってしまう。そうなるともはや法律の意味がなくなる。

投稿: | 2012年5月16日 (水) 01時21分

被害者は本人ただ一人であるから、どのつながりまで考慮すべきも何も、被害者以外の人間の感情など加味すべきではない。
いや被害者の感情ですら加味すべきではない。
加味してよい場合があるとすれば被害者本人が加害者の減刑を望んだ時のみである。

投稿: | 2012年5月16日 (水) 01時24分

ななしさん、こんにちは。

 > 上の例だけど、100円ショップで買ったコップならどちらも弁償額と謝罪の形は同じでなければいけない。

日常生活においては、私の感覚では、弁償額は同じでも謝罪の言葉は異なって当然であると思うのです。

そして、法律は人間の感覚や日常生活に基づいているべきと思います。

  *        *        *

間違い(犯罪や事故)が起こしてしまった時(再発防止もやるべきですが)出来る限りの原状回復(損害賠償)を行うべきです。

そして事故や事件でき傷ついたのが物質(経済的損害)だけでなく精神(感情)もそうであるなら、考慮されるべきではないでしょうか。

  *        *        *

ところで、日常生活で、傷ついた心に無関心であったら、面倒事が増えませんか?

投稿: | 2012年5月16日 (水) 22時54分

↑は乱読雑記のコメントです。

名前の入力を忘れました。すみません。

投稿: 乱読雑記 | 2012年5月17日 (木) 06時15分

感覚や感情はすでに罪刑法定主義という形で尊重されている。
「こういう罪を犯した場合はこれ以下のこういった刑罰に処する」と決められている。
すでに反映されているのだからそれ以上私情を介入させたらもはや私刑でしかない。
「美人が強姦されて殺されたら遺族、そして世論の同情強いから死刑」
「ブスや障害者や老婆が強姦されて殺されても遺族、世論の同情が薄いから懲役刑」
感情を考慮するとはこういうことだ。

全く利害関係のない第三者が不特定多数集まって発した意見については量刑の公平性を損ねるおそれがほとんどないことから、配慮の余地はあるだろう。

投稿: | 2012年5月18日 (金) 18時12分

ななしさん、こんにちは

> 感覚や感情はすでに罪刑法定主義という形で
> 尊重されている。
> 「こういう罪を犯した場合はこれ以下のこう
> いった刑罰に処する」と決められている。

なるほど、ななしさんは遺族感情を反映させることを完全否定しているのではなく、事後的に(裁判などで)反映させるのではなく、事前に立法の過程で織り込んでおけという立場なのですね。

> すでに反映されているのだからそれ以上
> 私情を介入させたらもはや私刑でしかない。

「私刑」のレベルまで感情を反映させろと要求している訳ではありません。犯罪に対する刑罰には幅が決められています。懲役何年以上何年以下とか。その範囲内で反映させることは私刑とは言えないと思います。

>「美人が強姦されて殺されたら遺族、そして
> 世論の同情強いから死刑」
>「ブスや障害者や老婆が強姦されて殺されて
> も遺族、世論の同情が薄いから懲役刑」
> 感情を考慮するとはこういうことだ。

本質的な問題は「ブスや障害者や老婆」に対する同情・共感がないことじゃないでしょうか。「ブスや障害者や老婆」に世論の同情があつまれば良いことでなないでしょうか。

> 全く利害関係のない第三者が不特定多
> 数集まって発した意見については量刑の
> 公平性を損ねるおそれがほとんどない
> ことから、配慮の余地はあるだろう。

「全く利害関係のない第三者が不特定多数集まって発した意見」と「世論の同情」の違いが私には判りません。

投稿: 乱読雑記 | 2012年5月19日 (土) 07時04分

>事後的に(裁判などで)反映させるのではなく、事前に立法の過程で織り込んでおけという立場なのですね。

織り込んでおけと主張しているのではなく事実そういう法体系になっているからその事実を伝えたまで。

>その範囲内で反映させることは私刑とは言えないと思います。

範囲内に収まっているなら「被害者がより他人に愛されている人ならば重罪」
「被害者がより他人に愛されていない人ならば軽罪」となるべきだと言いたいの?


>本質的な問題は「ブスや障害者や老婆」に対する同情・共感がないことじゃないでしょうか。

「被害者の属性によって他人の評価が異なる」ことが問題だということを認識してるんでしょ?
だから遺族感情を、たとえ法律で定められた量刑の範囲内であっても、反映させてはいけないんだよ。
加害者の境遇や被害者との関係は考慮すべきだよ。
加害者が被害者に脅迫されていたとか、加害者が不幸な生い立ちを持っていたとかいうことはね。


>「ブスや障害者や老婆」に世論の同情があつまれば良いことでなないでしょうか。
どうやったら集まるか方法論を書いていない時点で
「被害者が他者から愛されていない者であった場合に罪が軽くなる」事態を防ぐ手立てを思いついていない、と宣言しているも同然だ。
仮に「全ての被害者が同じように差別なく他者から同情を買うようになり、その世間の同情が量刑に反映される」
ことが実現した場合、つまりそれは「遺族感情や世間の評価を量刑に反映させない」ことと同義である。


そもも「どう思っているか」という自己申告に一体何の信憑性がある?
昨年の地震で取り壊そうと思っていた家屋が倒壊して、
取り壊し費用が浮いた上に、「財産が破損した」とみなされて政府から補填を受けてほくほく歓喜していた者を知っている。
原発避難民の中にも報道陣の前では「家に帰れなくて辛いんです」などと涙を流しながら語りつつ、
一人につき月10万円補填されて一家5人で50万円の補填をもらい、
この生活がずっと続けばいいと願っている者も知っている。
人は自分の利益になるためなら、あるいはならなくても自分の鬱憤を晴らしたいからとか、
好きだからとか嫌いだからとか私的な欲望を満たすために、いくらでも嘘をつくものだ。
そんな嘘で量刑が左右されるというなら、法律がある意味がない。
たとえあらかじめ定められた裁量の範囲内であっても、だ。

投稿: | 2012年5月21日 (月) 11時36分

>「全く利害関係のない第三者が不特定多数集まって発した意見」と「世論の同情」の違いが私には判りません。

法律上定められている罰則と、犯した罪の重さが不釣り合いだと素人感覚でも直感的に判断できる場合がある。
例えば尊属殺重罰規程、動物虐待、各種凶悪少年犯罪等々。
「量刑と犯した罪の大きさが不釣り合いだ」として法律そのものの妥当性に疑念を挟む場合は、
法律が改正されればその規程が万人に等しく適用されるのだから、公平性を害する危険性は少ない。
その事件を機に法律が改正されれば、少なくともそれ以降に同様の被害を受けた被害者は、
先例と同じように救済されるのだし、同様の罪を犯した者も先例と同様に処罰されるのだから。
また改正前の規程によって、あまり救済を受けていなかった被害者にも過剰に処罰されていた加害者にも補填が行われ、
またある行為に罰則が設けられても法律施行以前にその行為をなした者は処罰されないのだから。(遡及処罰禁止)

ただし、柔軟な法解釈と称して、被告の属性に応じてころころ法律を改正する事態を招きかねないので、
「被害者がその個人ではなく、その他の個人であっても同様の判断を下していたか」
ということの検証が必要になるだろう。

投稿: | 2012年5月21日 (月) 11時37分

まず処罰に対する根本的な考え方を問いたいのだけれど、処罰は仇討ですか?
遺族が復讐するための措置ですか?
そしてその復讐する権利をどういう根拠で誰に与えるのですか?(=誰に遺族としての資格を与えるのですか?)
機械的に肉親を遺族とみなすとして、肉親が加害者で、「罪を軽くしてほしい」と望んだらそれが反映されるのですか?
誰も復讐したいと思わなかったら?


仇討してくれるほどその人を愛している人がいなかったら、「こんな奴を殺しても復讐されないから殺していい」って考えて殺す人が出てくるかもしれませんよね。
ホームレス狩りがその典型です。

遺族感情を考慮とはそういうことですよ?

投稿: | 2012年5月21日 (月) 12時00分

ちょっと訂正。
尊属殺重罰規定が改正されたのは、行為と罰則の重さが釣り合っていないという理由からではなく、
「被害者の属性によって罪の重さを変えると法の下の平等に反する」という理由からである。

世論をどんな場合に考慮してよいか悪いかという問題についてであるが、
このように、法律に論理的な不備がある、または現代社会に適合的でない場合、
ある事件を端緒として、その法律はおかしいと世論から声があがり、
それを考慮して法律の規定を改正する、ということはありだろう。
たとえば今ならば非嫡出子の遺産相続が嫡出子の相続分の半分となっているが、
これは法の下の平等に反するという意見があり、
仮に訴訟が起きればそれを契機として法律が改正されるだろう。
飽くまで
「現実にある事件が発生したことが端緒となって、もともと矛盾が内包されていた法律が改善されることになった」
というだけであって、
個別具体の事件そのものの発生には本質的な意義はない。
このような場合に大衆からの意見を尊重するのは問題ないということが言いたかった。
特に日本の憲法は個別具体の訴訟が起きて初めて内容の妥当性を検証する仕組みになっているからなおのことだ。

で、上記の尊属殺重罰規定違憲判決の例からも分かるように、
「加害者の行為を評価する際に、被害者の属性を加味する」
ことは「被害者を不平等に扱う」ことになるから許されないのだ。


1万円の値段がついた商品が不具合を起こしたので製造元に代替品を求めた。
1万円の商品の代替品は1万円の商品でなければならない。
そこで消費者が「思い入れがあるから100万円の価値がある。100万円の商品を代替品としてよこせ」
と主張し、その主張が法的に認められるとしたら、製造元は商品に値段をつけることができなくなる。
消費者の勝手な主観で商品価値を決められたら、もはや経済活動は成り立たない。

投稿: | 2012年5月21日 (月) 13時21分

ななしさんこんにちは、長文のコメントありがとうございます。
すべてに反応すると話が発散してしまいそうなので、部分的な反応となることをお許し下さい。

> まず処罰に対する根本的な考え方を問いたいのだけれど、処罰は仇討ですか?
> 遺族が復讐するための措置ですか?

刑罰の役割については、社会からの隔離や再教育や犯罪の抑止などの役割があると思います。それに加えて「被害者の復讐心を(あるていど)満足させることで、新たな暴力を抑止する」というのもあると思います。

誰かに加害されたら、復讐したくなる謝罪して欲しくなるのが人間です。

私は、個人はその「暴力」を社会に預けていると思っています。暴力を預ける代わりに、社会が自分の代わりに暴力を振るってくれる。社会が振るう暴力に(あるていど)自分の意志や気持ちを反映させることができるのだと思っています。

 *    *   *

殺人事件の場合(殺人事件に限らないと思いますが)、直接の被害者以外にも傷ついた人々がいても不思議はありません。その方々の傷ついた心を無視していては、その個人は「暴力」を社会預け続けるでしょうか。個人が社会に暴力を預けることを正当化できるでしょうか。

投稿: 乱読雑記 | 2012年5月22日 (火) 22時02分

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