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2012年8月13日 (月)

多文化共生の(庶民にとっての)不可能性

にぎやかにしたい人々と静かにしたい人々が一緒にいたら、どちらかが我慢しなくちゃならない。両方が幸せでいるためには、距離をおくしかない。

食べ物などの生活する上で発生する臭いも同じで、距離をおくしか両方が幸せでいられる方法は無い。

多文化共生は(日々の生活で距離をとれない庶民にとっては)誰かが我慢すると言うこと。

誰かが我慢している状態を多文化共生と言えるだろうか。

  *        *        *

にぎやかにしたい人々と静にしたい人々、一緒にいて、両方が幸せになる方法が無いかぎり、多文化共生はありえない。

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コメント

 いつも拝読しています。読んでいて、いつもすかっとします。

 多文化共生に関しての今日のエントリー、同感です。私は、仕事や付き合いで、外国の人との交流もあり、それ自体は楽しくやっていることも多いです。彼らと接することで、今まで見えてこなかった自分の足元や「日本」が見えてくることも有ります。

 ただし、昨今の「多分化共生」の思想には、違和感を感じます。
 思想誘導者の思惑はよく知りませんが、思想の受け手の傾向としては、外国かどっかで上辺だけ見聞したものを、思い込んじゃってる…、あるいは、「そういうものだし」と、違和感は感じていても、否定するだけの十分な意見が思いつかないまま、受け入れているような気もします。

 英語が話せないことへのコンプレックスや、世の中が女性化していることや、何かそういうところに、根源的な理由がありそうな気もします。

 森林では、多様な植物が生きている、などと聞きますが、ある植物学者によると、実際は、同じ森でも、棲み分けがなされているとか。見るべきところは、「共生」ではなく、「棲み分け」と思うのです。競争しちゃったら、弱い種は負けるだけです。

 共生って、実は物凄く難しいし、実は、絶妙なバランスの棲み分け、平衡状態みたいなのが、到達点のような気もします。外国人や思想の違う人と、まともに相手すればするほど、「疲れるな」というのが正直なところ。
 先の「思想」をまともに受け入れちゃったら、ただ撹乱されるだけ、みたいな気がします。

 触発され、色々書き連ねてしまいました。失礼しました。
 暑い日が続きます。ご自愛専一に。

投稿: 5295 | 2012年8月13日 (月) 10時05分

多文化共生なんて所詮は、国内で言っているだけでの糞みたいなきれいごとでしかありません。
考えようによれば、国内において、いろんな文化がごっちゃにできるのであれば、外国においても等しくできるのではないでしょうか。しかし、きれいごとを口にする連中にとっては、そんな事は無関心なようでして、国内に外国人を受け入れる一方で、中国やフィリピンのような国に日本人の血が混じった人がいれば、さながら敵中に取り残された友軍部隊のごとく「救出」作戦を行いたがります。
とどの詰まる所が、多文化共生で、紛れ込むよそ国文化の多くは、連中が居住に耐えないと見なす国の文化なのです。

投稿: DUCE | 2012年8月13日 (月) 21時08分

母親語(マザーリング・ランゲージ)の偉大さ

生まれたての赤ちゃんは真っ白で、母親とのスキンシップなどの親和充足によりすくすく育ちます。
そして、家庭という世界から出て友達との関係をもつ幼少・学童期には、乳幼児期での親和充足を基に、周りへ警戒心を抱くことなく肯定視で接し友達との充足を育みます。

赤ちゃんにとって最も重要なこの至福の時間の中で、母親が自然と使っている言語(母親語)の大切について、以下紹介します。

引用元は、ブログ「縄文と古代文明を探求しよう!」で掲載中の『始原の言語・日本語の可能性』シリーズでお馴染みの、黒川伊保子さんの著書『日本語はなぜ美しいのか』からです。

内容は以下で
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=267580

三歳までの子と母は、満ち足りた精神状況の中で、本能に従って行動すること。

それしかない。

外国に住んでもいないのに、親が外国人でもないのに、外国語教育を施すなんて、もってのほかだ。

投稿: 紹介記事 | 2012年8月14日 (火) 17時54分

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