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2013年9月13日 (金)

憲法九条の虚しさを感じるとき

憲法九条の虚しさを感じるとき

民団新聞:<ヘイト・スピーチ>五輪開催地で民族差別なんて!…一般市民ら体あたり抗議
http://www.mindan.org/shinbun/news_view.php?page=10&category=2&newsid=17879

一部は「レイシストを通すな」とばかり、デモコースとなった大久保公園から職安通りに通じる歩道に座り込み、あるいは寝転がったりして封鎖行動に出たが、警備の機動隊に一人ずつ排除された。

デモ隊が職安通りに入ると、拳を振り上げて「日本の恥」、「差別はやめろ」の大きな叫び声をあげた。

どんな主張をしているかはともかくとして、「差別はやめろ」なんて言っているのだけれども、その主張を訴える方法が「座り込み」とか「封鎖行動」とか「大きな叫び声」というような、実力行使・暴力すれすれ行為なんだよね。

そういった意見の違い・価値観の違いからくるぶつかりあいをみると、憲法九条や憲法前文の言葉が、あくまでもタテマエに過ぎないということを思い知らされる。

  *        *        *

戦争は国家の行為であり、国家は人間が作るもの。そして人間が、差別に反対するという言葉の下に暴力的行為を行っている。

正義の名の下の暴力。

憲法九条は虚しい言葉にすぎないと感じさせられる。

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コメント

憲法9条は、世界に誇れる条文と思っている。
それを貶めているのは、9条教の人々。
彼らは、9条の精神を守ろうとしているのではなく、日本の弱体化を目指している。
9条を守るためには、日本は強くならなければならないののに。

投稿: a | 2013年9月15日 (日) 07時35分

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