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2013年11月13日 (水)

国のために死ぬこと

国のために死ぬこと

琉球新報 社説:道徳教科化 皇民化教育の再来を危ぶむ
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-215156-storytopic-11.html

個人の心の内面に国家が踏み込む。国家が特定の人間像を強制する。そんな危惧を禁じ得ない。 文部科学省の有識者会議が小中学校の道徳について、教科化と検定教科書の使用を提言すると決めた。国が一律に徳目を指定するのは戦前の「修身」を想起させる。国のために死ぬことを求めた皇民化教育の再来ではないか。

皇民化教育は、沖縄戦であまりに多くの犠牲を生じさせた。その痛切な体験で、国による特定の道徳の押しつけがどんな結果を招くか、われわれは骨身に染みて知っている。道徳教科化は避けるべきだ。



教科書を国が検定することは、何が道徳的に正しいかを国が決めることになる。国家への貢献を求めるのは必然だ。政府へ不満を言うのは「愛国心が足りない」ということにもなりかねない。

道徳の教科化は「教育の中央集権化」、「教育の政治利用」だ。弊害はあまりに大きすぎる。

人間は「群れ」を作って生きる生物なので、属する群れのために命を賭けたり、命懸けで群れの為に働いた仲間を賞賛する本能を持っている。だから教育の場で「国のために死ぬこと」を求めたり賞賛することは、ある意味当然であるように思われる。

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問題は、どんな国なのかとか、どの国かとか、愛国心を利用し利権を貪る人間をどう排除するかであって、「国の為に」ではない。国の為にを否定する、つまり群れや仲間を軽んじる人間は、群れから排除されてゆくだろう。それは、その個人にとっても幸せな事とは思えない。

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国(属する群れ)の為に、と思うことは悪いことではない。そして、それは本能なので、あえて強制なんかしなくても良い。お前は日本人であると伝え、日本の文化を知らせることが最大の要点であって、日本を自分の群れと認識すれば良いのだ。

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話は変わるけれど、私は、自分の子供達が学校から持って帰ってきた道徳の教科書より、戦前の修身の教科書(靖国神社で買った)の方を好ましいと思っている。

修身の教科書には明確な価値観が提示されている。つまり従いやすいし反抗もしやすい、無視もしやすい。しかし、現在の道徳の教科書は生徒に考えさせることを目的としたのか、搦め手で来る。これは従うことも反抗も難しい。

エライ人の価値観は、(ちょっと頭が良くてヒネクレていれば)そういうものとして流すことの出来るぐらいシンプルなものの方が良い、逃げ道は広い方が良い。

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だから、私は修身のような道徳の復活を望む。

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コメント

台風後のフィリピンの様の 五十年後は成るでしょう
教育勅語復活が待たれますね

投稿: 薩摩の昔船乗り | 2013年11月14日 (木) 10時52分

>政府へ不満を言うのは「愛国心が足りない」ということにもなりかねない。

政府支持の意見を封殺していないか、沖縄のマスコミは。

投稿: a | 2013年11月14日 (木) 16時57分

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