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2014年1月 2日 (木)

でも、靖国参拝は許せないんでしょう?

でも、靖国参拝は許せないんでしょう?

毎日新聞 社説:民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう
http://mainichi.jp/opinion/news/20140101k0000m070141000c.html

新年に、虚子の句「去年(こぞ)今年 貫く棒の 如(ごと)きもの」を思い浮かべる人も多いだろう。2013年から14年へ、貫く棒は何なのか。

年末、安倍晋三首相が靖国神社を参拝し、保守支持層から喝采を受けた。愛国心、ナショナリズムが、政治を動かそうとしている。強い国を作ろうという流れに、いっそう拍車がかかるのかもしれない。

だが、強い国や社会とは、どんな姿を言うのだろうか。指導者が、強さを誇示する社会なのか。

違う、と私たちは考える。強い国とは、異論を排除せず、多様な価値観を包み込む、ぶあつい民主社会のことである。「寛容で自由な空気」こそ、貫く棒でありたい。

毎日新聞社説:民主主義という木 枝葉を豊かに茂らそう 
http://mainichi.jp/opinion/news/20140101k0000m070141000c2.html

全体が一時の熱にうかされ、一方向に急流のように動き始めたとき、いったん立ち止まって、国の行く末を考える、落ち着きのある社会。それをつくるには、幹しかない木ではなく、豊かに枝葉を茂らせた木を、みんなで育てるしかない。

その枝葉のひとつひとつに、私たちもなりたい、と思う。「排除と狭量」ではなく、「自由と寛容」が、この国の民主主義をぶあつく、強くすると信じているからだ。

自由や寛容を言うならば靖国参拝にも寛容でなければ、「寛容」という看板に偽りありということになるのだけれど、どうなのだろうか。

少なくとも現時点では、安倍首相は靖国参拝を他者に強制しようとはしていない。対して反対派は参拝しないことを強制しようとしている。これでは靖国参拝反対派の方が「排除と狭量」なのではないか。

  *        *        *

自由も寛容も美しい言葉だ。しかし、徹底するとなると厳しい言葉でもある。

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自由や寛容を言う人々が、他者に対しては寛容ではないことは良くあることだけれど、それでは信用されなくなるだろう。靖国参拝反対派は、自由や寛容という言葉を使うことに慎重であるべきだ。

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