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2014年12月26日 (金)

民主主義の自由はどこまで

民主主義の自由はどこまで

時事通信:親北朝鮮野党の解散決定=「民主主義の危機」の声も-韓国憲法裁
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201412/2014121900534

南北分断という特殊事情があるものの、政党活動や結社の自由など民主主義の基本的権利に制限を加える決定で、「民主主義の危機」との声も上がっている。保守、進歩両陣営の対立が一層激化する見通しで、朴槿恵政権の強権イメージがさらに強まりそうだ。

民主主義には言論や思想の自由が必要だけれども、どこまでの自由があるのだろうか。私は「国家の存続を否定しない限りにおいて」という制限がつくのだろうと思っている。そして、この制限は無意識に刻まれていて気がつかないので、大きな自由があるように錯覚しているのだとも思っている。

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日本に「日本の滅亡を願う政党」は存在できないし(反日的と批判される政党も、本人たちの主観では日本の為と信じている)、アメリカにも他の民主国家にも、その国の滅亡を願う政党は存在しない。もちろん悪政によって、滅びに導いてしまう政党はあるだろうけれど。

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民主主義の強さは自由であること、逆に言えば、自由にやっても国家を解散しないこと。

バラバラの人間を集めて、「さぁ一緒に・自由に」と言っても続かない。自由にやったらバラバラになるし、一緒にやることを重視したら自由がなくなる。集団の永続と自由さは対立する。でも、民主国家は自由でありながら解散しない。言論の自由は最重視されているのに解散することは議題にもならない。それは何故か。無意識のレベルで国家の永続を願うように刻まれているからだ。

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無意識に刻まれていて、違反することが出来ないものであれば、法律で禁止する必要もないし、行政も取り締まる必要もない。韓国での状況は判らないけれど、解散の決定をしたと言うことは、(北朝鮮の存在によって)この無意識の刻みが弱いからだ。

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民主主義は神聖な法則というよりは、実用品で、そのように取り扱うべきだ。大きな人間集団が意思決定しようとするときの方法にすぎない。で、あれば、その集団にとっての利益とは何かを議論することは出来ても、その集団の存続を否定する議論をすることは出来なくて当然だ。

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民主主義は神の真理でも神聖な法則でもない。実用品なのだから、そのように取り扱おう。

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