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2015年1月25日 (日)

多様性の為の統一を

多様性の為の統一を

神奈川新聞:時代の正体〈54〉邦人拘束事件は問う(上)失われゆく多様性
http://www.kanaloco.jp/article/83192/cms_id/122676

安田さんの目に自己責任論の矛先はいま、後藤さんが救出しようとした湯川遙菜さん(42)により厳しく向かっているように映る。自ら立ち上げた民間軍事会社の顧問を名乗り、反政府勢力と行動をともにしているところを捕らえられたとみられる。

「だが」と安田さんは力を込める。「何をしに紛争現場へ行ったのかを救出の是非に結び付ける論調がある。それでは理由によっては『では、助けなくてよい』という話になりかねない。それは違う」

国家が選別し、取捨選択される命があり得るなら、人々はやがて国家の意に沿って振る舞うようになるだろう。その先に待つのは、価値観が国家という一つの物差しに収斂(しゅうれん)してゆく社会、つまり多様性を失った社会ではないのか。

「国家が選別し、取捨選択される命があり得るなら、人々はやがて国家の意に沿って振る舞うようになるだろう」

政府と国民の関係で言うなら、日本は民主国家なので、国民が(感情的なレベルで)取捨選択し、それに政府が従うという事になるだろう。自分のビジネス(民間軍事会社)の為にトラブルにあった人間と、友人を助けようとしてトラブルにあった人間では、友人を助けようとした人間に対して好感を持つのが自然だろう。

それでも結果を見れば「愚行」と言わざるを得ないけれど。

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「命の選別」なんて誰もやりたがらないだろうけれど、現実には選別せざる得ない場面はあるし、広く考えると日常的に行われている。

例えば、災害時の対応、救助隊の能力によって助けられる人数が限られているときどうするか。能力以上の人数の要救助者がいたらどうしようもなく、命の選別をしなければならない(子供から助け出す、とか)。

また、日常的に行われている選別もある。金持ちは安全な土地を買い安全な建物に住む。貧乏人はそういったことが出来ない。直接的に選別されている訳ではないし、日本では貧乏人もそれなりに安全であるから大きな問題にはなっていないけれど、金持ちならできる安全対策というものがある。そうである以上、経済力での選別は行われていると言えなくもない。

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「その先に待つのは、価値観が国家という一つの物差しに収斂(しゅうれん)してゆく社会、つまり多様性を失った社会ではないのか」

多様性の為には、多様性を排除した何かが必要だ。矛盾のようにも聞こえるけれど、「同じ◯◯なのだから、これくらいは我慢しよう」というのが無ければ、相手の違いを我慢できないのが人間なのだ。

「同じ◯◯」のところに入れるのは、宗教か思想か、民族か、国家か。私は国家が世俗国家であり民主国家であるならば、国家をいれるのが良いと思うのだ。

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コメント

国家の能力にも限りがある以上、それに見合った基準と言う物が定められても別段異常とは言えますまい。そんな物にまでけちを付けるのは単なるエゴ以外の物でしかありません。

投稿: DUCE | 2015年1月25日 (日) 16時50分

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