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2015年8月 8日 (土)

自由の範囲を

自由の範囲を

信州毎日新聞 社説:「歴史」と「公共」 多様な見方学べるように
http://www.shinmai.co.jp/news/20150807/KT150806ETI090009000.php

山口県の県立高校では6月、国会審議中の安全保障関連法案を生徒が議論し、投票する授業があった。県議会で自民党議員が政治的中立性を問題視し、県教育長が謝罪する事態になった。これでは教員を萎縮させ、政治的な対立があるテーマを避けることにもなりかねない。

教員が特定の思想を押しつけてはならないのは当然だ。だからこそ生徒の自由な討論に委ね、自ら答えを見つけられるようにする必要がある。それが「主体的な社会参画」につながる。

自主性・自由などと言っても限界がある。例えばISISの思想、「イスラム国」の原理主義のようなもの、あるいは北朝鮮の主体思想のようなものにかぶれた生徒がいたら、教師は反論なりなんなりするだろう。生徒の自主性に任せて自由にさせるなどと言うことはしないだろう。

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自主・自由を尊重せよと言う事はたやすい。しかし、無限の自由を認めよとは誰も要求しない。つまり、ここからここまでという限界がある。

問題なのは、この限界をどこに設定するかということなのだ。

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市民運動や野党やマスコミは、自由の尊重を政府に求める。しかし、自由の限界線について述べることは少ない。でも、それでは、泣いている赤ちゃんと同じだ。その場合、大人である政府や与党がさまざまな判断をしなければならなくなる。

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政府に自由を求めるならば「ここから、ここまで」という自由の範囲を提示しなければならない。それが出来ない新聞は自由を要求するだけの新聞は、社会の木鐸とは言えない。

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