「弱者」を理由にしてよいとき、わるいとき
「弱者」を理由にしてよいとき、わるいとき
ハンギョレ:『帝国の慰安婦』著者の起訴に韓国知識人が反対声明
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/22674.html
議論が拡散していることに対し、慰安婦被害ハルモニ(お婆さん)たちが集まって住む「ナヌムの家」のアン・シングォン所長は「ハルモニたちは『出版物による名誉毀損の疑い』でパク教授を告訴したのではなく、学問の自由を口実に、個人の人権を踏みにじった行為に対して処罰を求めたもの」とし、「日本軍による蛮行の被害者を『自発的』『売春婦』などで表現したのは、学問と良心の自由とは別に、弱者に対する人身攻撃であるため、処罰を受けて当然だ」と述べた。
慰安婦問題についてではなく「学問と良心の自由とは別に、弱者に対する人身攻撃であるため、処罰を受けて当然だ」という部分について書いてみます。
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弱者に対する攻撃だから、という理由で処罰されるとしたら、次の瞬間には「ナヌムの家」が処罰されることになります。何故なら「ナヌムの家」の側には公的権力の応援があるのですから「弱者」ではなく「強者」です。批判された学者は負けたのですから「弱者」になります。つまり「ナヌムの家(強者)」による「弱者」への攻撃ですから、処罰されるのは「ナヌムの家(強者)」となります。
弱者は勝った瞬間に強者になるのです。ですから「弱者への攻撃だから」と処罰すると、処罰した瞬間に矛盾が発生します。ですから処罰は「弱者」という理由ではなく「正義・不正義」という理由で下されなければなりません。
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彼等は真の弱者ではなく、「弱者」というラベルやイメージを使っているだけ。
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弱者に必要なのは、強者になるための援助、強者と戦う能力を獲得するための機会、つまり教育です。そして、生き延びるためのリソースです。
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弱者だから正義であるというような考えは間違っています。
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