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2017年3月 3日 (金)

知的障害者支援

知的障害者支援

NHK 視点・論点:「障害者差別解消法を考える」(視点・論点)
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/264233.html

障害者差別解消法が昨年の4月1日に施行されました。その約4か月後の昨年7月26日に津久井やまゆり園の障害者殺傷事件が発生いたしました。犯人の元職員は、鑑定留置の結果、刑事責任能力が認められて2月24日に起訴されています。この事件は特異な事件との見方もされがちですが、障害者差別を考える上で本質的な問題もはらんでいます。いま何を議論すべきなのか、少しお話をしたいと思います。



なにが足りないのか、それは障害者の問題が孤立化していることへの認識です。その背後には、障害者以外の方々の障害者に対する理解があります。

多くの人々は、障害者は、障害ゆえに能力のない人だ、自分でものごとを判断できない人だ、だからとても困っておられる、そう理解しているのではないでしょうか。そう理解した場合、支援の基本は代行決定になります。障害者は「保護の客体」となってしまいます。そうした支援を管理型権利擁護と呼ぶとして、いまの施設は多くがこのタイプの考えのもとに建物も運営方針も設計されているように思います。しかし、やまゆり園の関係者もそうだと思いますが、障害者の方と接する多くの人々は、障害者にもなんらかの能力があり、その人なりの判断があることを実感します。

あらゆるすべての個人は、障害者も含めて「人生の主体」であり人権を持っていることは間違いないが、障害者は「能力のない人」だと私は思う。

能力的に問題がないなら、十分に能力があるなら、援助の必要はないのだから。

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本人の判断を尊重するのは結構なことだ。しかし、その本人に判断能力が無かったらどうなるだろうか。

本人にまかせて、結果責任もとらせるというのも、ひとつの問題解決の方法かもしれないが。例えば、知的障害者本人に自由にさせる。その結果も本人にとってもらう。収入も健康状態も法的責任も。

相模原の事件で被害者となったような方々(言葉を喋れないレベルの知的障害者)は何日生きていられるだろうか。

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元職員の独断的偏見は、管理型権利擁護の支援が行われている環境の中で育まれた可能性があり、これを自立型権利擁護の支援へ転換していくことが重要だと思うのです。そうすれば、たとえ今回の元職員のような特異な傾向をもった人物が、そこで働いたとしても「障害者は生きる価値がない」などという極端な独断を持つには至らないのではないかと思うのです。つまり、我々国民全体が障害者の問題を孤立化させ、社会から隔離された管理型施設を生み出しているところに、やまゆりの事件が突きつける根本的な差別が存在しているように思うのです。差別をしているのは元職員だけではないのです。われわれ全員がその差別に加担しているとも言えるのではないか。そう認識したからこそ、神奈川では建物の建て直しへの反対運動が起きているのです。障害者差別の解消といっても、この根本的な差別に向き合わないと、議論が国民的な議論になることはないように思っています。

障害者支援をすることに異論はない。自立が望ましいことにも賛成する。しかし、自立権利擁護とやまゆり園のような大型施設とどちらがコストがかからないのだろうか。

コストの問題じゃない、という意見もあるだろうが、無限のコストを使うことはできない。コスト無視の政策は(福祉政策も含めて)必ず破綻する。コストの問題を無視してはならない。

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引用元の記事からはコスト意識を感じなかった。もしかしたら自立型権利擁護の支援も管理型と同じくらいのコストで出来るのかもしれないが、そうであるなら、そのことをアピールするべきだ。

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