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2017年6月16日 (金)

罰を与えるときには慎重に

罰を与えるときには慎重に

信州毎日新聞 社説:尼崎脱線事故 法人の刑事責任議論を
http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20170615/KT170614ETI090009000.php

死者107人、けが人562人という史上まれに見る列車事故なのに、誰一人として刑事責任を負わないことになる。

兵庫県尼崎市の福知山線脱線事故で、業務上過失致死傷罪に問われたJR西日本の歴代3社長の無罪が確定する。強制起訴した検察官役の指定弁護士の上告を最高裁が棄却したためだ。

遺族や被害者に割り切れなさを残すとともに、今の刑法の限界を浮き彫りにした。再発防止のためにも法人の刑事責任について議論を進めたい。



事故の遠因を含めて解明し、経営側に積極的な安全対策を促す。そのために法人の刑事責任を追及する新たな仕組みが必要なことを今回の裁判は示している。

大きな事故だから責任者ががいるはずだ、大きな事故だから誰かが罰を受けるべきだ、とは私は考えない。誰かに責任を取らせたい罰したいという気持ちは理解できる。自分も被害者の立場になれば、そう思うかもしれない。しかし、人間の起こした事故だから責任者がいるはずだという考えは傲慢ではないだろうか。

どんな事故でも責任者がいるということは、どんな事故でも個人の手で(個人の能力で)防ぐことが出来たということだから。

人間の(個人の)能力は、そこまで大きくない。

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「罰」を与えるなら、それは無過失責任によるものとするが良いだろう。どんなに頑張っても事故は起きる(ゼロにはならない)。防ぎ得ない事故というものはある。

無過失であっても罰を受ける(悪人ではないのだけれど罰を受ける、生贄になるのだ)とするなら、私には許容範囲だ。誰かが悪いと非難や復讐するのではなく、悪くないけれど起きたことを贖わなければならい立場というものもあるのだから。

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「事故の遠因を含めて解明し、経営側に積極的な安全対策を促す。そのために法人の刑事責任を追及する新たな仕組みが必要なことを今回の裁判は示している。」

罰を与えれば注意するだろう、という考え方は正しいのだろうか。いくぶんかは正しいだろうけれど、自分のことを考えても、罰が与えられると判っていてもやってしまう(不注意になってしまう)のが人間なのだ。また、法人に責任を取らせるとなると(原因や責任によって罰が変わるとすると)証拠の隠蔽など原因追求に協力的ではなくなるだろう。

罰を受けるかもしれないものが協力的であるとは期待できない。個人であれば黙秘権があるのだからと企業も自己防衛する権利を求めさえするかもしれない。

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法人の刑事責任を追求する制度(法律)を定めるならば、その効果を慎重に考えた制度や罰でなければならない。簡単に復讐心で決めてはならない。それでは、頭にきたからと体罰を与えるバカ親や暴力教師と変わらない。

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コメント

これ、刑事責任を負うべきなのは、運転士だろうが、死んじゃったから、起訴できなかった「被疑者死亡」というだけだと思う。 

投稿: 北極熊 | 2017年6月16日 (金) 13時48分

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