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2017年8月21日 (月)

「ムラ」の復活?

「ムラ」の復活?

毎日新聞 社説:社会保障第3の転換期に 「我が事」で地域社会を作る
http://mainichi.jp/articles/20170821/ddm/005/070/042000c

近くまとまる提言は、すべての人々が地域に主体的に参加することを柱としている。福祉の「受け手」と「支え手」を固定せず、高齢者も障害者も支える側に回ること、商業・サービス業・農林水産業など分野を超えて地域経済や支え合いに参画することが打ち出される。

もう一つの柱は、縦割りの福祉ではなく、地域の課題を「丸ごと」受け止める体制を作っていくことだ。

最近は80代の親と働いていない50代の子が同居している困窮世帯を指す「8050問題」、介護と育児を同時に担わなければならない「ダブルケア」などが増えている。従来の縦割りの福祉行政で対処が困難になっているのだ。

こうした「地域力強化」には批判も起きるだろう。財源確保ができない国が責任を放棄し、地域に役割を押しつけるのではないかと警戒する声はすでにある。介護保険の財源不足から、国はサービスを制限してきた経緯もあるからだ。

縦割り行政が良いとも言わないし思わないけれど、「地域の課題を『丸ごと』受け止める体制」とはどんな体制でどんな社会になるのだろうか。

  *        *        *

自分は地方出身者で子供のころは村のコミニュティが残っていた。子供のころのオネショの話を何十年たっても忘れてもらえないような濃密な社会。人間関係が希薄になった都会ではありえないプライバシーのなさがあった。

行政が「丸ごと」受け止める(行政ではなく民間かもしれないが)、この場合、丸ごとなのだから、ある個人の全てを丸ごと受け止めるために、その個人の情報をどこまで集めるのだろうか。

昔の村社会の濃密さが再現されてしまうのだろうか。

  *        *        *

プライバシーを大切し、個人の意志を尊重するなら「丸ごと」の面倒はみられない。誰かを「丸ごと」受け止めるなら、プライバシーに踏み込むし本人の意志に従えない場合もあるだろう。

プライバシーや個人の尊重と丸ごと面倒をみること(見られること)の安心の両立は、不可能なのではないかと思う。

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縦割り行政も「丸ごと」も私は否定しない。しかし、判った上で選択したいものだ。

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コメント

日本的暗黙協調社会の重要性

古い日本社会では、見えない労働、シャドウワークに従事する人々の層が厚く、しかもその人達の労働に報いる仕組みがあった。
それにより日本は他国に比べ比類ない競争力の優越を保ってきた。
ところが欧米式の下らない競争主義と評価制度の導入により、シャドウワークに従事する人々が完全に評価の枠組みから外れてしまい、搾取の対象としか見なくなった。
これにより日本社会の協調は完全に破壊された。
かつての日本社会は共同体であり、メンバー間の賃金格差や評価の差が少なかった。
それ故、シャドウワークに従事する人達も不満を抱くことなくシャドウワークに専念できた。
また、顕在化された評価軸と言うものが少なかったので、トップに立つ者が影の功労者を見出し、影の労働に報いることが仕組みとして容易にできた。
ところが欧米式の下らない競争主義と評価制度の導入により、制度化されていない評価は、えこひいきとか特別待遇とか言って批判の対象にされるようになってしまった。
そうではないのである。
評価軸に乗らないような仕事、例えばお茶くみとか社内の宴会要員、ムードメーカーのような人の働きが、トップの人達の高い生産性を保つ隠された仕組みとなっていたのだ。
それを心眼で見抜いたトップが陰の功労者を引き上げて労働に報いていたので、シャドウワーカー達は腐らずにトップを支え、忠誠心の高い必死の組織が維持できたのである。
西洋的な合理主義の組織では、全ての人間の機微を制度に落とし込むことが出来ないから、顕在化した単純な評価軸に頼る。
そうすると評価軸に乗らない暗黙的な貢献をしている人の労働が見逃され報いられなくなる。
結果的に、競争主義を導入した日本の組織はバラバラになり、最低のパフォーマンスしか出せなくなったのだ。
日本的な暗黙協調社会を復活させる必要がある。
それは強い信頼関係で結びついている家族的な共同体を会社の中にどのように構築するかということなのだ。
昔の日本社会はその事に実に巧みであり、所属組織の為に命を掛けて頑張るような人物が本当に無数にいたのである。
そういう強い決死的組織を再構築せねばならない。
それに失敗すれば日本民族は滅び、欧米や中国や韓国の奴隷にされるだろう。
民族の魂を呼び覚ます必要があるのだ。

投稿: とおりすがり | 2017年8月21日 (月) 05時22分

日本的暗黙協調社会を、実力主義が壊したのは正しいと思うけれど、日本的暗黙協調社会のなかで「立派なお茶汲み」や「本当のムードメーカー」でなくて、「タダの怠け者」が蔓延ってきていたから実力主義が自然と求められるようになったのだと思いますよ。 

投稿: 北極熊 | 2017年8月21日 (月) 17時37分

>「タダの怠け者」が蔓延ってきていたから実力主義が自然と求められるようになったのだと思いますよ。

北極熊さま、ありがとうございます。
しかしそれは、卵が先か鶏が先かということで、日本的暗黙協調社会が壊れて来た為に、シャドウワーカーが評価されなくなり、やる気を無くして「タダの怠け者」が蔓延って来たのだと思います。
そこで競争主義を導入するのは正しい解決策では無く、むしろ日本的暗黙協調社会を立てなおす方向に改革すべきだったのです。
解決の為に選んだ方向が間違っていたように思うのです。

投稿: とおりすがり | 2017年8月21日 (月) 19時12分

実力のある人々が支えきれる程度に、タダの怠け者と表裏一体のシャドーワーカーとやらが増えちゃったのが、事の発端でしょうね。 実力者が減ったという事かもしれませんが、それは実力を発揮しても報われないなら、実力者も実力発揮に頑張らなくなるし、さらにはシャドーワーカーを見習って働く無くなったのではないかな。 そしたら、実力主義という処方箋しかないんだよな、、。

投稿: 北極熊 | 2017年8月22日 (火) 17時23分

>実力のある人々が支えきれる程度に、

北極熊さま、それは傲慢というものです。
実際は、「実力のある」と錯覚していた人達を支えていたのがシャドーワーカーなのです。
事実、シャドーワーカーを切り捨ててしまった現在、「実力のある」と豪語していた階層の人達は何も成果が出せなくなりました。
自分だけで仕事をしていると勘違いして居る人の事を、昔の日本では「天狗になっている」と言って馬鹿にしていたものです。

投稿: とおりすがり | 2017年8月22日 (火) 21時59分

「天狗になっている」のは、実力が無いのにあると勘違いしている者を指していう言葉でしょ。 つまり、、「実力のある」と豪語していた階層の人達で成果が出せなった人たちは元から実力は無かったわけで、実力主義社会の導入やシャドーワーカーが居ても居なくても関係ないですよね。 シャドーワーカーが給料に見合った収益を上げず間接的に評価されるシャドーワークとやらの対価として給料を受けるには、売上と収益を上げられる実力者の稼いだものを分け与えるしかないのだから、実力者が支えるという表現以外に言いようが無いよね。 それを傲慢と言うなら、社会はそもそも傲慢なものなのですよ。 

投稿: 北極熊 | 2017年8月23日 (水) 15時42分

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