2006年4月20日 (木)

死刑

死刑

日刊スポーツ:光市母子殺害結審、死刑以外納得できない
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20060418-20701.html

山口県光市の母子殺害事件で、殺人罪などに問われ1、2審判決で無期懲役を言い渡された男性被告(25=事件当時少年)の上告審弁論が18日、最高裁第3小法廷で開かれ、弁護人の安田好弘弁護士らは「1、2審が『冷酷で執拗(しつよう)』とした殺害状況の事実認定は誤っている」と述べた。その上で裁判の続行を求めたが、浜田邦夫裁判長は認めず、結審した。

被害者の遺族の発言から引用します、同じ記事からです。

また「被告は死刑の可能性を感じ、初めて真剣になったのだろう。自分の命が奪われるかもしれない恐怖を通じ、犯した罪の重さを知ってほしい」とも述べた。

TVで記者会見の様子を流していました。記憶で書きますが「被告や弁護人は最高裁で弁論が開かれると決まってから真剣になった。死刑になる可能性が出てから真剣になった。一審、二審は真剣ではなかった」と述べていました。

「初めて真剣になった」という言葉に犯人の甘えと不幸を感じました。けれども「正当な理由なく他人の生命を意識的に奪った」人間は死刑になっても仕方がないと思いますし、少なくとも自分が死刑になるかもしれないと言う恐怖を味わうべきであると思います。

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「少年だから死刑にならない」に限らず「〜だから死刑にならない」と言うのは過去のものとすべきです。

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2005年12月21日 (水)

「人を殺すこと」が軽すぎる

「人を殺すこと」が軽すぎる

「どんなに怒っても…」姉妹の父親が心境語る
http://www.sankei.co.jp/news/051220/sha045.htm

過去に同容疑者が自身の母親を殺害していたことにも触れ、「更生できてない人間を世に出す今の司法は中途半端。国には問題の本質を考えてもらわないと悲しむ人が増えるばかり。2人にはこんな世の中でつらい目に遭わせてすまんと思ってる」と涙を流した。

「人を殺すこと」が軽く扱われているように思えてしかたがない事件だ。

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山地容疑者は、16才のときに母親を殺しているが刑事裁判を受けていない。

少年(16才)だったからだ。

私は、殺人・強盗・性的暴行については刑事罰と刑事裁判について年令制限を行うべきではないと思う。そういった罪を犯す能力があるなら「子供」として扱うべきではない。

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殺人・強盗・強制猥褻致傷(致死)に対しての扱いが軽すぎるのではないか。こういったことを「自らの意志で行った者」は厳罰に処すべきで、特に死に至らしめた場合は2度と社会に復帰させるべきではない、と思う。

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2005年12月20日 (火)

ネットと現実は地続きなんだよ

ネットと現実は地続きなんだよ

ネット掲示板に「幼女狙う」 威力業務妨害で高1逮捕
http://www.sankei.co.jp/news/051217/sha061.htm

生徒は、休み時間中に教室で携帯電話を使い、書き込みをしていた。「ネットの世界だけで騒がれるものだと思っていた。実際にやるつもりはなかった。反省している」と容疑を認めているという。

高校1年生のイタズラなんですが...ネットは現実と地続きなんで、ネット(2chもBLOGも含めて)で書いたことって言うのは現実に撥ね返るんだよね。

子供にネットへのアクセス手段を与えるときに最初に教えるべき事の一つだと思う。

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2005年11月 7日 (月)

ちがうんじゃないか

ちがうんじゃないか

放火未遂事件で謝罪会見、NHK会長が報酬30%返上
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20051106it12.htm

NHK大津放送局記者が放火未遂容疑で逮捕された事件で、NHKの橋本元一会長は6日、記者会見を開いて謝罪、「おわびを目に見える形で示す」と述べ、今月から3か月間、自身の役員報酬の30%を自主返上すると発表した。

うーん、違うんじゃないかな。

このNHK職員は、仕事上の職務で放火したわけでもないし、スクープしたくて放火したわけでもないようだ。

仕事でストレスがかかることは良くあることだ。自分にも同僚や部下がいるけど、職場をはなれたプライベートな事には干渉しないし、できない。

自分の部下がストレスのあまり不祥事を起こさないと安心していられる上司はどれくらいいるだろうか。社員の精神的な健康や福祉のために、配慮し(たえば精神科医やカウンセラーを配置するなどし、結果的に)不祥事を起こさないと言える経営者が何人いるだろうか。

NHKの会長が謝罪するとしたら「社員の(精神的)福祉が十分でなかったこと」だろう。NHKの社員に対する配慮が他社にくらべ酷いものであれば、責められるべきだと思うけどそう言った報道はないようだ。

NHK会長の立場なら「世間の非難に答える」「どういう理由であれ、避ける方法がないものであれ、不祥事は不祥事」というのも理解できるけどね。

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2005年9月29日 (木)

血が逆流する文章

血が逆流する文章

「反『人権』宣言」八木秀次
ISBN4-480-058998-2

下に引用した文章を読んだとき、一瞬、血が逆流した。一種のトラウマだね、これは。

「この教師の勤める学校でも、校内出でナイフを見ることは少くない。あるとき、生徒と先生の間で次のような会話があったという。
『危ないよどうしてそんなもの持ってるの?』『別に。ロープ切ったりとかするだけだし』チャッと音を立ててバタフライナイフが開いた。『それ、こわいよ持ってくるのやめてよ』『おれが何かすると疑ってわけ? それって人権侵害じゃん』(『朝日新聞』一九九八年二月三日付)
これで生徒とのやりとりは途絶えた。この教師は「人権...。教員は、この言葉にどれほど困っていることか」と嘆息したと、この記事は伝えている。
(略)
今日、「人権」という言葉は、それが突きつけられると皆、及び腰になる、あたかも水戸黄門の印篭のように、口にしさえすれば、誰もが押し黙ってしまう、あるいは思考停止してしまう、神聖で犯すべからざる言葉として流通している。

なにも「人権」という言葉にトラウマがあるわけではない。私が反応したのは、「力で押しとおす」行為と人間に対してだ。中学・高校時代の横暴な教師や危険な不良の記憶。抑圧された状況、不良の先輩にからまれた状況のフラッシュバック。

「人権」と言う言葉は曖昧なのだ。不良がナイフをちらつかせながら「おれが何かすると疑ってわけ? それって人権侵害じゃん」と主張する。それを可能にする人権という言葉の危なさ。そして「人権」があることが何も保障しないという空しさ。何を人権と呼ぶに値するのか真剣に考えなくてはならない。でなければ、単なる自己中でも「人権侵害!」と騒いだ者が勝つ社会になってしまう。

「人権」という言葉に怯えてはならない。

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2005年9月26日 (月)

人権と人義と自由

人権と人義と自由

権利には義務が、自由には責任が伴う

なら「人権」には「人義」が伴うだろう

「人としての義務」ってなんだ?

「自由」と言う言葉は好き

「人権」と言う言葉は嫌い

「『自』分が理『由』」で「自由」

「自由に行った」結果は「自分の責任」

自分が理由なのだから、自分に責任があることは明白

「人権」は中味の無い言葉

どんな事でも「人権」と言い張れる、だから

大きな声で「人権!」と叫ぶことが出来る者が利益を得

声も出せない者、あるいはお行儀の良い者は

何も得ることができない言葉

それが「人権」

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2005年8月 7日 (日)

SARSのニの舞い?

SARSのニの舞い?

豚連鎖球菌の感染拡大 中国、情報統制を強化
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20050805/20050805a3900.html

【北京5日共同】中国四川省で豚連鎖球菌の感染が拡大し、5日までに病死した豚を解体するなどした農民ら200人以上が感染、38人が死亡した。
感染ルートは解明されておらず、北京市が発生地産の豚肉を急きょ回収処分するなど波紋が広がっている。世界保健機関(WHO)北京事務所は中国側に「協力の意向」を伝えたが、5日現在、回答はないという。専門家から「有史以来最悪」と指摘する声が上がる中、中国は地元メディアの独自報道を禁止するなど情報統制を強化している。
2003年に大流行した新型肺炎(SARS)の際は、政府部門の情報隠しが感染拡大を招いた経緯がある。
中国誌、瞭望東方週刊は最新号で、6月24日に同省資陽市の病院が最初の犠牲者を確認、その後、同市と内江市で感染者と死者が次々と増えたと伝えた。

SARSのニの舞いにならない事を願っています。
中国はWHOの協力を受けるべきだと思いますが...中国の体質はSARSの時から変わっていないようです。そろそろインターネットだけでなく既存のマスコミ(TV、新聞)もニュースにするべきだと思いますが、中国から出るまで(中国以外で被害のでるまで)だんまりなのでしょうか?

ブタ連鎖球菌の拡大懸念、地方農家が指示無視と 中国
http://www.cnn.co.jp/science/CNN200508020027.html

四川:豚連鎖球菌感染症、死者1人増え39人
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2005&d=0807&f=national_0807_001.shtml

香港 奇病の不安広がる 四川省産豚の販売自粛
http://www.sankei.co.jp/news/050728/kok023.htm

四川奇病:発症131人、重篤患者21人、死亡27人に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050728-00000002-scn-int
 
遼寧省にも「怪病(奇病)」が発生、一人死亡
http://www.epochtimes.jp/jp/2005/08/html/d64920.html

青海省玉樹、疫病閉鎖地域で騒乱、軍隊が大量動員
http://www.epochtimes.jp/jp/2005/07/html/d90887.html

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2005年7月28日 (木)

「私の視点 専門高校への偏見」武田明宏

「私の視点 専門高校への偏見」武田明宏
朝日新聞 2005年7月28日12版 12面

専門高校とは 工業高等学校や商業高等学校のことである。

かつてのテレビドラマにも。工業高校に不良がたくさんいるかのような印象を与えるものがあった。私自身も、16年前、助手として4年間勤務した大学から工業高等学校建築科の教員に転職したが、当初は同じような偏見を抱き、身構えて生徒たちに接したことがある。

著者の工業高校での取組を紹介した投稿だが、著者の出身大学との連携を実施し効果をあげていることを述べている。また工業高校への偏見〜不良が多い〜を解消したいと願ってもいる。

私も工業高校を多少は知る人間だが、著者の取組みの方向に賛成したい。そして、いくつかの意見を述べたい。

まず、私の事実認識を述べる。(1)工業高校に入ってくる生徒達は必ずしも工業高校の各専門科の内容や卒業後の針路に憧れて〜あるいは納得して〜入学しているのではない、ということだ。大学ならば、工学部建築科でもレベルがいろいろあり専門によってランクが決まると言うことはあまりない。工業高校では○○科と○×科で受験の難易度が大きく違う。つまり高校受験のときに内申と模擬試験の結果で自動的に学科を決めた生徒が多いのだ。

(2)生徒と教師の間に超えられない壁がある。中学までは生徒は もしかしたら将来、教師になるかもしれない。しかし、工業高校では、生徒が教師になることは まず無いであろうし教師が工業高校の生徒であったこともまずないであろう。

(3)専門性が低すぎる。工業高校の3年では、教えられる専門知識が少すぎるのではないか。一般教養を無視することもできないので、3年間を全て専門知識の修得と実技に使うこともできない。

つまり「工業高校」という存在は中途半端なのだ。この中途半端な存在であることが「不良」と「中退」を生むのではないかと思っている。

対策として著者の行なっているような、大学との連携のような より専門性を高めることは、正攻法であると思う。高い専門知識を身につけることが出来るのであれば、単純に「自分の成績だとこの学校のこの学科」ということは無くなるだろう。生徒と教師の間の壁も「専門家」としてつきあうことが出来れば突破できるだろう。

高校の3年間では短すぎる。専門知識だけのために1年余計に在学できるような制度が出来ないものだろうか。

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2005年7月27日 (水)

貢献感とニートとフリーター

貢献感とニートとフリーター

「(中)希望のゆくえ 職就かずに夢見続けたい」
朝日新聞 2005年7月27日朝刊 12版 26面

戦後の「自分を大切に」してきたことの結晶が「ニート」「引きこもり」という形で表われたのだと感じた。

私はアドラー心理学に興味をもっていた時期があって「アドラー心理学トーキングセミナー(野田俊作著)」などを、読み耽っていたことがある。アドラー心理学では健康な人格の判断基準の一部に「共同体感覚」「貢献感」をあげている。もちろん、これだけではないのだが、この2つは、アドラー心理学独得のものであるように思う。


「共同体感覚」というのは、自分がより大きな世界の一部であるという感覚です。「自分は○○人」という帰属している感覚に近いけれども、その帰属している対象、つまり共同体がとてつもなく大きい。家族や国家は帰属感を持つ対象としては小さすぎると言っています。共同体感覚の対象としてもっとも小さい共同体は、全世界の人々(いままで生きた人々もこれから生まれるであろう人々も含む)であると言っています。ちょっと宗教がかっていますが。

「貢献感」は共同体に貢献しているという感覚です。

正確に知りたい方には「アドラー心理学トーキングセミナー」を読んで下さい。面白い本ですから。

ところで、この朝日新聞の記事を読んで、何故、アドラー心理学を思いだしたかと言うと、この「ニート」や「フリータ」達は自分を大切にして「自己実現」を追い求めるあまり「貢献感」と「共同体感覚」をどこかに忘れてしまったように感じたからです。自分の夢を追い求めるのは「芸術家」の特権であり宿命です。多くの人々にとっては、社会や家族(その人にとっての共同体)に「貢献」することが「自己実現」なのですが。

「貢献感」を感じることは、人間にとってとても気持の良いものなのですが、現代の日本は若者に「自分を大事に」せよと教えるあまり、「国家に利用される」ことを恐れるあまり、この「貢献感」と「共同体感覚」を味あわせていないように思うのです。

人間は群を造る生き物です。「自分のこと」だけを考えて生きるのは 人間にとって不自然なことなのではないでしょうか。

* * *
もっとも、この記事は朝日らしく「社会」が何か対策を行ない個人がその果実を受けるべき、という論調で「個人の貢献感」は無視されていますが。

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2005年5月30日 (月)

中途半端でもいいじゃないか

中途半端でもいいじゃないか

「『中途半端でもいいから』が挑戦する気持を育てる」原孝
週刊ダイアモンド 2005/06/04

「特集 息子・娘がニートになる日」の一部、この特集を読んだ印象では「ニートは『自己実現病』かかった贅沢な存在」だ。「生病老死」を知ったとき出家したブッタのようでもある。生活苦から切り離されて育った若者が現実にであったたきに 出家してしまう。ブッタは王子として生まれ、何不自由無く育てられたが「生病老死」にであった時にすぐさま出家してしまう。彼は完璧でないことに耐えられなかったのだろう。

あるとき、ハッとした。米国の若者が書く「長所」は、日本人の私から見ると、どれも「中途半端なもの」にすぎないのだ。たとえコンクールで入選したとか弁論大会で優勝したとかいうものでも、いわゆる「全国大会レベル」のものではなく、小学校のクラス討論で一位になったと言う程度のことでも堂々と書いてくる。
(中略)
「中途半端な総体としての自分を潔く引き受け、他者に中途半端な自分を開示していく」表現法を学ばせている。

世の中の大部分は中途半端な人でできている。大丈夫。中途半端でも仕事はあるし生きていける。「まぁ俺の人生こんなもの」と言いつつ「それなりに楽しいじゃん」と言えればいいのよね。

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