2015年3月23日 (月)

歴史問題

歴史問題

レコードチャイナ:外交安全対話でも改善しない日中関係、さらなる悪化へ=米専門家が分析―米メディア
http://www.recordchina.co.jp/a104676.html

オースティン主任は先日、ウォールストリート・ジャーナル紙に、「日中関係は次第に対抗へと激化している」との記事を寄稿した。日本も中国も相手の国際的影響力を削ごうと力を尽くしている。日中の対立は政治、外交、領土問題といった利益をめぐる争いであり、歴史問題ばかりに注目すれば問題の中核を見失ってしまうとコメントしている。

人間は嫌いになってから嫌いになる理由に気がつく。そして意識した嫌いになる理由が本当の理由である場合もあれば、合理化された(タテマエの)理由である場合もある。

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日本と中国は利害が対立している。尖閣諸島は、その判り易い例だ。東南アジア・南シナ海で行っている行動は、中国が弱い相手(自分より弱い相手)に対してどう行動するか示してくれる。日本にとって中国は経過すべき相手だ。中国にとっても日本は警戒すべき相手だ。中国が南シナ海で行っている勝手な行動を東シナ海では行えない。その理由は日本があるからだ。日本が存在しなければ、太平洋の半分を支配できると思っているだろう。また、アジア人でも民主政治が可能で経済的に発展することも可能であることを実証したことは中国共産党にとって不都合だろう。

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中国には日本を嫌う理由がある。けれども太平洋の半分を支配したいから、民主主義が怖いという理由で日本を非難することは出来ない。だから中国は歴史問題を理由にする。

中国が歴史問題・歴史認識を理由にするのはタテマエに過ぎない。それを意識しないで譲歩したところで(本当の理由は変わっていないのだから)、別の問題を作り出す(言い出す)ことになるだけだ。

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オースティン主任の「日中の対立は政治、外交、領土問題といった利益をめぐる争いであり、歴史問題ばかりに注目すれば問題の中核を見失ってしまう」という言葉は正しい。

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2006年1月27日 (金)

左翼って、どうしてこうなんだろう

左翼って、どうしてこうなんだろう

「これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史」
中塚 明
ISBN4-87498-284-0

私は左派か右派かと聞かれれば「右派」だと思う。だから左派の本を意識的に読むようにしている。中塚氏は左派の歴史家だ。私は朝鮮の歴史も知りたいと思っていることもあって、この本を読むことにした。

前半部分にはさほど違和感もなく「親韓的だなぁ」と思うくらいで歴史書として読めたが、後半は「歴史書ではなく政治的アジテーション」としてしか読めなかった。

例えば以下の部分。

一九三六年、ベルリン・オリンピックで、「日本」はマラソンに優勝しました。しかし選手は実は朝鮮人、孫基禎でした。南昇竜も第三位に入賞しました。朝鮮の人びとは、両選手を誇りに思うと同時に、表彰台上にあがる「日の丸」にこみあげるくやしさと悲しみをあじわいました。朝鮮の新聞、『東亜日報』は孫選手の写真をのいせましたが、ユニホームの「日の丸」をけずりとって報道したのです。新聞は無期停刊の処分を受けましたが、ここにも朝鮮人の抗日の精神があざやかに示されていました。
(P159)

最後の「あざやかに」という言葉に引っかかった。「あざやかに」という言葉は価値判断を含んだ感情表現だ。私なら「はっきりと」とか「明らかに」と言う表現をする。

  • 朝鮮人の抗日の精神があざやかに示されていました。
  • 朝鮮人の抗日の精神がはっきりと示されていました。

「はっきりと」の方が「価値判断」を抑えた表現だと思う。政治的アジテーションでなければ、事実を伝えようとするのであれば「価値判断を含んだ言葉」はさけるべきではないか。

ところで「ユニホームの『日の丸』をけずりとって報道」ということは捏造写真を新聞に載せたということだ。「抗日の精神」を表現したいのであれば、写真はそのまま掲載し記事や社説で意見表明するべきなのではないか。事実を伝えるべき新聞の行為としては賛成できかねる。

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もちろん朝鮮総督府のこうした植民地政策でも、朝鮮人の民族魂をなくすことはできません。公立普通学校の校数・生徒数は増えては行きますが、私立学校・書堂(民間の私塾)の増加にはおよびませんでした。日本の支配者は「書堂」を「実にあわれなるありさまなり、.....ただ字を書き、字を読むだけで、なにも実用文明の学芸をさずけず、数百年来のふるくさい習慣をかたくなに守っているだけだ」(韓国政府学部『韓国教育』、一九〇九年参照)と見ていましたが、そこでは現状を打ち破り、独立の回復をめざして地道な教育がおこなわれていたのです。
(P123〜P124)

「地道な教育」の内容が知りたい。でなければ「日本の支配者」の見方が正しいかどうか判断ができない。政治的な文書であればアジれれば良いので、判断の材料を提供する必要はないけれども。

もっとも、題名に「これだけは知っておきたい」とあるように入口として書かれた本なのだろう、だから、こういったことを要求すべきではないのかもしれない。

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この本を面白く読めなかったかと問われれば、面白く読めた。文章は軽快で読み易いし、もっと知りたいと思ってしまったこともあった。例えば創氏改名についてだ。「入口」として書かれた本ならば成功していると言えるかもしれない。

けれども、歴史書としては「信用できない」と言わざるを得ない。歴史書としては表現に感情的な形容が多すぎるからだ、このことが歴史書ではなく政治文書だという読後感を与えている。

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2006年1月 6日 (金)

小説ですから

小説ですから

「坂の上の雲(1)」司馬遼太郎
ISBN4-16-710576-4

司馬遼太郎の小説を「事実」あるいは「歴史」として読んではマズイと思いました。

小さな。
といえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。

引用した部分の前半にすごい違和感。

江戸時代について学べば「産業といえば農業しかなく」とか「人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかなかった」なんて言えないよ。

あくまでも「小説」「フィクション」として読みましょうってことで。

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現在、2巻目を読み終わったところ。これは「歴史」として読むと点描に過ぎる上に正確でないように感じる。「小説」としてなら...うーん...好みじゃないみたい。エッセイと小説の混合物としてなら読めるかな。

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2005年8月24日 (水)

出遅れたけど「マンガ嫌韓流」

出遅れたけど「マンガ嫌韓流」

「マンガ嫌韓流」山野車輪 
ISBN4-88380-478-X

しばらく前に購入したのだが、この本について(ネットで上では)語られているし....まぁ出遅れたのでどうしようなかなぁ〜と思っていた。だから、内容については書かない。

ただ、この本がネット上だけでなく、紀伊之國屋や有隣堂といった普通の書店でも売れていることは注目しておくべきだと思う。Webでベストセラーランキングを公表しているところを見ると、7位の丸善が最低だった(*1)。以下はチェックした書店と順位である(括弧内の数字が順位)。

紀伊之國屋(1),有隣堂(1),八重洲ブックセンター1F(2),文教堂(2),三省堂(5),丸善(7)

私が買った書店でも何度か見かける度に扱いが良くなっていって、書店が「この本は売れる!」と力をいれているのが面白かった。最初(私が購入したとき)は、「諸君」の後にひっそりと5冊くらい平積してあった(そんなとこに置いてたら見つかんないだろ!)、一週間後にいった時には、目立つ場所に20冊ぐらい平積してあった(うんうん GJ)、今日見たら、平積してあってさらに、なんて言うのかな「斜めに本を立てかけて目立つようにする台」の上にディスプレイされていた。

派手な広告なしに ここまで売れていると言うことは「ベストセラーおめでとう!」「100万部も夢じゃない(けど在庫には注意してね、2巻目を期待しているから)」「他の出版社もがんばれ!」だね〜

(*1)大盛堂を除く。大盛堂のページをチェックしたら 7月20日付のランキングしかなかった。たしか7月26日が発売日だから、ランク入りしていないのは当然。でも大盛堂なんかあったの? ページの更新が止まっているみたい。大盛堂以外のチェックした書店では全てランク入りしていた。

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2005年8月 2日 (火)

日本の嫌韓流を見抜いた編集者に脱帽

日本の嫌韓流を見抜いた編集者に脱帽

「漫画『嫌韓流』10万部大ヒットの『気分』」
週刊朝日 2005年8月12日号 8月2日発売

『マンガ嫌韓流』は10万部印刷したらしい。まったく宣伝をしていないことを考えると、30万部を超えるベストセラーになっても不思議ではないと思う。ひょっとすると100万部こえるかも(まさかね)。この大ヒットは日本に韓国の言分に納得していない人々が如何に多いかを教えてくれた。

「内容的な問題やエンターテインメント性がないといった理由で、持ち込みをした十数社すべてに出版を断られたそうです。でも、彼はホームページ上で韓国について意見を書き、漫画も一部掲載している。ネット上ではけっこう注目されていたので、私からアプローチしたんですよ」

この本の担当編集者の「勇気」と「世の中を見る目」に敬意を表わしたい。

実は『マンガ嫌韓流』をまだ入手していない。「本は本屋で実物をみてから」買う主義なので(仕事上で必要な資料以外は)アマゾンも注文もしない。平日には本屋めぐりも難しいので当分読めないだろう。早く読みたいものだ。

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2005年7月30日 (土)

「日本と中国における『西洋』の発見」

「日本と中国における『西洋』の発見」銭国紅
ISBN4-634-64960-8

私は「なぜ、日本は明治維新に成功し近代化し、中国(清)や朝鮮(李朝)は近代化できなかったのか」知りたいと思っている。

19世紀の清は欧米についての情報量で日本に劣ることはないようだ。むしろ、欧米の宣教師が中国語への翻訳や出版を行ない日本は翻訳された書籍を輸入する立場であったように むしろ清の方が情報を持っていたと言って良いだろう。清が近代化できなかったのは、西洋を知らなかったからではない。

では何故なのか。

まず、学ぶ態度の違いである。日本は遣隋使以来の「外国に学ぶ」という態度があった、一方、中国には〜華夷秩序というのだろうか〜自分たちが外国に学ぶものだどないという態度であった。自分たちの文明に自信を持ちすぎていた清は、ロシアに外交使節を送ったとき、西洋式の礼法に則って行なわれたことに面子を傷付けられ、外交そのものに消極的になって行く。日本は外国に行ったときには外国の礼法に従っても面子を傷付けられることはなかった。

また、比較対象の違いということもある。日本は常に先進国(潜在的な脅威)として中国を意識してきた。そのため中国と西洋を比較することができ、西洋がすぐれたているなら、その文物を取り入れることができた。それに対して、中国は外部に(文化的な面での)脅威を持たなかったため、自分自身と西洋を比較するしかなかった。人間にとって他人同士の比較よりも自分自身と他者の比較は難しいものである。この点は同情してもよいのかも知れない。

このような状況のなかアヘン戦争が起きる。そしてアヘン戦争に清は敗れるが、この時も清は危機感を持たなかったようだ。敗れたのは単に兵器の差であると解釈した中国は(兵器については学習しようとしたが)その兵器を生み出した思想と社会制度を評価することはなかったようだ。

社会の仕組を含めた近代化の必要性を実感したのは日清戦争(1894年)にやぶれてからである。日本の明治維新の約25年後のことだ。この時から中国の近代化と西洋の知識の本格的な吸収は始まるといっても良いかもしれない。考えようによっては杉田玄白の解体新書(1774年発行)から約100年の差があると言えるだろう。

さて、現在の中国はどうであろうか?

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2005年7月11日 (月)

日本をもっとパクろう

日本をもっとパクろう

「模倣される日本ー映画、アニメから料理、ファッションまで」浜野保樹
ISBN4-396-11002-2

「世絵はマンガへと進化した」で、この本の書評を読んで記事を書いてしまった。なんとなくこの本のことが気になっていたので、先日、書店で見かけたとき思わず買ってしましまった。

前半には「世絵はマンガへと進化した」で書いたように日本のアニメを始めとする文化が模倣されているか 実例を上げて述べられている。だが、著者はこの部分よりも むしろ後半の日本の文化の現状についての愁いについての部分の方が言いたかったのではないかと感じだ。

まず「オリジナルとコピー」、オリジナルを知ってしまった人間はコピーでは満足できなくなる。アメリカのメジャーリーグと日本のプロ野球がこの関係ではないかとしている。実際 イチローや松井がMBLに行ったあとのプロ野球の現状をみると「コピーはオリジナルにかなわない」ということが良く判る。プロ野球が「真のワールドシリーズ」をやりたい理由はここにある。サッカーはワールドカップがあるおかげで「弱いかもしれないが本物」という扱いを受けている。日本の金持が「舶来物」を欲しがることを嘆いてもいる。そしてもう一つ、戦後日本が直面した文化の断絶である。占領軍(GHQ)の指示により歌舞伎や剣道なと日本文化は断絶の危機に直面した。幸にもアメリカに日本文化の理解者がいたため、断絶することはまぬがれた。

さて、私達は日本文化を継承しているとはいえ失っているものも多い。私自身、神社のお参りの作法を親からの伝承ではなく本で学んだのである、大したことではないかも知れないが。躰の使い方(しぐさ)、お祭りや年中行事の縁起についても学びなおしたい。そして日本文化のおいしいところをパクろうと思う。ビジネスではなくアートとしてならば「パクられる」ことは最高の称讃なのだから。

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